富尾神社
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由緒
赤木吹原の富尾神社は、祖母岳大明神の一柱豊玉姫命と豊後大神姓緒方氏の末裔佐伯惟治・千代鶴父子を祀る。
室町時代の天文三年(1534)九月二十五日、神主安藤式部大夫の勧請。富尾大権現と称したという。
江戸時代初期の慶長十二年(1607)神社の改築を期に現在の宮ノ元に移転し、三月に遷宮式を行った。赤木在中の宗廟として尊敬を集めたといわれる。元禄二年(1689)ごろ、中野村(現本匠村)三股から杖踊りを伝授され、毎年八月八日の祭典に奉奏していたがその後中止となる。宝暦十年(1760)拝殿改築、慶応二年(1866)拝殿再建、明治九年(1876)素屋改築を行い、同年村社となる。
相殿は、字立箱の今宮社(大己貴命)、字面外の王子社(伊弉冉尊)、宇牛王堂の軍神社(大国主命)、字長野の愛宕社(軻遇突智命)、字荒平の石神社(筒男三神)、字屋敷・字中津留の両天満宮(菅原大神)の七社である。
祭神佐伯惟治・千代鶴父子の非業の最後については「両豊記」の概略を記す(本社の縁起は長文のため割愛する)。豊後の国海辺郡佐伯栂牟礼の城主佐伯薩摩守惟治は緒方三郎惟栄の末孫である。大友の家人となり、代々主従の礼儀を尽くしていたのに、大永七年(1527)のはじめ、いかなる者の仕わざなのか、大友義鑑に、惟治は反逆の企てなりと讒言した。義鑑はたいそう起こって臼杵近江守長景に命じて佐伯の城を攻めさせた。佐伯はこのことを聞いて、深田・野下を使者に偽り言の旨を願い出たが、義鑑は承知せず、両人を討ち果たした。先陣はすでに野ノ口山~小倉山~小田ノ荘まで押し寄せた。惟治も寄る敵を待って防戦した。寄せ手大勢討たれ、攻めあぐんだ。そこで臼杵は城中に使いを出した。惟治のこと、讒者の舌先によって、いったん交戦に及んだけれども、元来、御身の上に一点のくもりもないのだから、長く籠城して多くの軍兵を亡くすのはつまらないことである。まずは、いったん日州(日向)へ引き退き、理を尽くして申されれば、義鑑もきっと承知するだろう。このことには、長景もよいようにはからうと起請文(神仏に誓い嘘偽りのない旨を記した文書)を書いてなだめると、惟治もついに同意。日州の方へ落ち行くこととなった。臼杵近江守は、日州の新名一党と心を合わせ十一月二十五日、道中を追いかけたところ、佐伯の家臣が防戦しているすきに惟治は自殺した。嫡子千代鶴も、佐伯の内西野にとどまっていたが、このことを聞き自害した。その後、惟治の霊魂が黒沢郷多田の娘によりすがって「わが身には少しの過ちがないのに攻め討たれた恨みはない。臼杵方に売られたことこそ無念でならない。三か年の内にこの仇討ちをする。」と。その外、奇怪な事件が多く起こったので、人々は惟治を神に祀り、富尾権現と号した。
=讒言説=なお、佐伯惟治の刀が御神霊といういきさつは次のとおりである。落城の折、家臣が惟治公の武具を持って、字道ノ内の安藤忠衛門宅にひそかに隠れていたが、惟治公の自殺を聞き、武具を残して日向に向かった。村人は惟治公の刀を御神霊として字井手ノ原に祀ったという。
御朱印
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販売等
あり
常駐はしていません。
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住所
祭神
豊玉姫命/とよたまひめのみこと 大神惟治霊/おおがこれはるのみこと 大神千代鶴霊/おおがちよづるのみこと
合祀神
伊弉冉尊/いざなみのみこと 大国主命/おおくにぬしのみこと 大己貴命/おおなむちのみこと 軻遇突智命/かぐつちのみこと 筒男三神/つつのおさんしん 菅原神/すがわらのみちざねのみたま二柱
例祭
1月8日・11月7日
お問い合わせ
佐伯市直川振興局 地域振興・教育課
TEL 0972-58-2111